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海水パンツとゴーグルで、巨万の富を築きました。カリブの怪物、フリーアルバイター瞳です。

「フラッシュ・ボーイズ 10億分の1秒の男たち」読了

はじめに

こんにちは、StackdriverあらためGoogle Cloud Operations担当者です。コロナ禍によって在宅勤務が増えるだけでなく外出の機会が減った結果、家での趣味が増えています。4月以降に増えた活動だけでも

  • 読書
  • 自作キーボードの調整・作成
  • 園芸・家庭菜園
  • 仕事部屋の整理・充実

などがあります。特に読書のペースは昨年と比べるとだいぶ上がり、図書館から常に本を借りている状態になりました。最近は金融・経済・西洋美術の本を読むことが多いのですが、先日読み終えた「フラッシュ・ボーイズ 10億分の1秒の男たち(原著題: Flash Boys: A Wall Street Revolt)」が金融系でありつつITが深く関連する話で面白かったので読書記録として残しておきます。技術書以外の記録を残すのは久々です。

以降、本書のネタバレを含みます。

高頻度取引業者がどうやって儲けるのか

高頻度取引(High Frequency Trade; HFT)が隆盛したのは自分が思っていたよりずっとあとで、2000年代後半、とくにサブプライムローン問題の後でした。金融系のニュースを見ると度々HFTの話題が出ていたためなんとなくその存在は知っていたし、雰囲気で「HFTはマーケットメイク戦略と裁定取引で儲けている」ということは知っていたのですが、本書でその細かな実態を初めて知り、これはとんでもないことだと改めて認識しました。

HFT業者が行うマーケットメイク戦略は価格差がある反対売買を繰り返すことでトレンドを作り適切なタイミングで利ざやを稼ぐ方法、裁定取引は価格の動きが異なる市場間で反対売買を行い価格差で利ざやを稼ぐ方法ですが、どちらにおいてもいち早く情報を獲得することで大きな利益を生み出すことができるため、回線速度を高める(低レイテンシ)ことが最重要となります。サブミリ秒での取引ですべてが決まっていたため、もはやこれは彼らに取っては必須の条件でした。HFT業者は取引所までのレイテンシを下げるために専用回線の契約やコロケーションなどを行います。基本的に経路が最短になればレイテンシは一番低くなるため、第1章や映画で作っていた専用回線はそれを目的としてシカゴとニューヨーク(実際はニュージャージー)をとにかく真っ直ぐつないでHFT業者に高い利用料で貸し、大儲けしたという話でした。

さらにナスダックを始めとする公開取引所や、ダークプールと呼ばれる投資銀行などが運営する私設取引所(PTS)の一種でのコロケーションも、場所を貸す代わりに高い利用料を取り、取引所ではその利用料による収入も無視できなくなっていたようです。また取引所はHFT業者が多く来てくれるように、取引に応じて報奨金を払うなどの施策も行っているということも初めて知りました。こうして取引所がHFT業者との結びつきが切り離せない状態になっていて、各投資銀行が実際に運用を行うにあたっても常にHFT業者にフロントランニングされ、本来であればHFT業者がいなければ安く買えた、あるいは高く売れた株式が期待通りの額で取引できず、結果しわ寄せは各投資家(我々一般投資家含む)に来るという、実情を知ると看過できない状況でした。

IEXが成し遂げようとしたこと

こうした事実に気付いたのがカナダロイヤル銀行RBC)のブラッド・カツヤマで、投資銀行が株式の取引を行う際に必要な数の株式を取得するために複数の取引所に発注をかけると各取引所に発注が届く時刻に時間差が生まれ、そこをHFT業者に突かれてしまうことに気が付き、時間差がなくなるように調整するソー(Thor)と呼ばれる取引プログラムを開発しました。これによりRBCだけでなく他の投資銀行にもソーの利用を呼びかけ、その過程で多くの投資家を味方につけていきます。

ソーの利用だけでは、その利用者だけしかHFT業者による搾取を免れることはできませんが、HFT業者が利益を取得する構造(高頻度取引を支えるReguration NMSと呼ばれる法律や、ダークプールに許される取引状況の非公開など)を健全化したいと考えたブラッドは、そのためには健全な取引所が必要で、かつそれが無視できない規模にならなければいけないと考え、IEXという取引所を立ち上げるに至ります。そこではHFT業者に有利になるような取引条件やルールを可能な限り排除して、コロケーションも認めず、アクセスするにはフロントランニングが不可能な距離にある中継所を経由しなければならないなど、徹底した公平性を目指しました。

立ち上げ直後にはHFT業者がいる状況を維持したい投資銀行などから嫌がらせを受けたりもしますが、本書の最後ではHFTによる利益を享受できないと判断したゴールドマン・サックスがIEXに協力し、結果IEXを取引所として維持していくのに必要な取引数を達成するに至って、今後の市場の健全化を願いつつ物語は終わります。

ゴールドマン・サックスとHFT

ゴールドマン・サックスはIEXを助けた一方で、そこに勤めていた優秀なロシア人エンジニアのセルゲイ・アレイニコフが同社を退職する際に、ソースコードの窃盗を行ったという理由で刑事訴訟し、結果セルゲイに懲役8年の判決がなされるに至り、実際セルゲイは刑務所で過ごすことになります。本書によれば、セルゲイはゴールドマン・サックス社内でHFT関連の対応をするために、社内の巨大なコードベースを整理しつつ、OSS製品にパッチを当てた上で社内で利用していて、そのパッチ込みのコードを退職の際に外部のコードホスティングサービスに置いたということで窃盗として訴訟された、ということになっています。

外部に置いたコードの大半がupstreamにあったものである上に、パッチを当てたものを還元するすることが許されなかったために行った行為であるにも関わらず、それをゼロから構築した機密事項であるかのごとく訴訟を起こし、最終的に覆されたとはいえ、懲役8年の実刑判決に至らしめたのは、ゴールドマン・サックスのHFTで利益を出しきれない焦りもあったのでしょう。

結果、HFT関連の牽引をしていた責任者が転職したあとの後任が自社の利益と倫理の両立が可能である市場の健全化に向かってIEXに肩入れしたのは、サブプライムローン問題でCDOを顧客に売りつつ、その暴落に賭けてCDSを買い、結果巨額の利益をあげたたった数年後というのはなんとも皮肉だと感じました。*1

HFTと日本市場

日本でも東京証券取引所を始めとするJPXが2010年にシステムを刷新し、高頻度取引などを行うインフラを整え、実際にコロケーションサービスを提供したりしています。

www.jpx.co.jp

研究者の報告によれば、2017年現在においては日本におけるHFTの状況は東証が主で、米国と違いダークプールでの取引量はほとんどないとのことですが、iDeCoやNISA、401kの推進などが進められているので今後どうなっていくのかは個人的に大変気になります。本書で書かれているような状況とは違い、日本ではHFT業者は金融庁への届け出をしなければならず、また今年8月(今月!)にダークプールに対してより多くの情報を公開するような規制が入るということで、せっかくこうした話題も理解できるようになったので、動きを追っていきたいと思います。

余談ですが、金融庁やJPX関連の情報を検索すると、検索上位がPDFファイルへのリンクだらけになり、PDFを除いてしまうと1次情報が壊滅的になくなってしまうので、モチベーションが無いのは分かりますが、金融関係者のみなさまにおかれましては、ウェブサイトに直接情報を掲載してくださいますよう、お願いいたします。

映画版との違い

本書「フラッシュ・ボーイズ」は一昨年「ハミングバード・プロジェクト 0.001秒の男たち(原作題: The Hummingbird Project)」というタイトルで映画化され、昨年日本でも公開されました。


夢のプロジェクト発案は偶然? それとも運命!?/映画『ハミングバード・プロジェクト 0 001秒の男たち』本編映像

映画は観ていないのですが、トレーラー映像や観た方が紹介しているあらすじを読む限り、本書の第1章に書かれていた内容を広げたもののようで、本書の本筋とは違う内容になっているようです。映画版は超高頻度取引(HFT)業者のために高速(低レイテンシ)回線の敷設を行う話にとどまっているようですが、本書ではその話は話の入り口でしかなく、本筋は上に述べたようにHFT業者のために投資家が不利益を被っているいう事実とダークプール含め取引所がHFT業者の活動を許すことで利益を上げているために是正していないこと、それを正すために立ち上がったブラッドの奮闘という、勧善懲悪物になっています。

マイケル・ルイスの著作

マイケル・ルイスは金融系ノンフィクション作家・ジャーナリストとして有名で、本書以外にも「マネーボール(原著題: Moneyball: The Art of Winning an Unfair Game)」「世紀の空売り(The Big Short: Inside the Doomsday Machine)」といった著書がそれぞれ映画化され、映画も含めて大きな話題となりました。

自分はマイケル・ルイスの著作を本で読むのは初めてで、「マネー・ボール」も「世紀の空売り」も映画でしか観ていませんでしたが、これを機にこれらの原作や他の著作を含めて読んでみようと思います。

追記 (2020/08/03 12:45): セルゲイ・アレイニコフとErlang

記事を公開したら力武さんが次のように教えてくれたので調べてみました。

Wikipediaを見るとたしかにErlangOSSに数多く貢献していた旨記載があります。

He authored a telecommunications patent and contributed to a number of open-source Erlang and C++ projects. He also published several Perl modules on CPAN.

Wikipediaにもリンクがありますが、ZeroMQのErlangバインディングを書いたのは彼で、実際ZeroMQのorganizationを見ると、彼が書いたバインディングのフォークが公式となっています。(@saleynが彼のGitHubアカウント)

github.com

他にもErlangコミュニティのメーリングリストで彼の無罪確定のニュースがスレッドになるくらい有名であったことが伺いしれます。 

erlang.org

関連書籍

本書の中でいくつか面白そうな書籍が参照されていたので、そちらも読んでみたいと思いました。

参照

*1:サブプライムローン問題の際にはそれだけでなく、CDSを売っていたAIGの株の空売りもして二重で儲けていたのがなんともえげつない